昭和42年7月28日 朝の御理解


 昨日、ある方がお参りしてまいりましてから、こういうようなお届けをされておられます。今朝方、その方がお夢を頂いておる。それがこの方は、あのある教会で、長年信心の稽古したんですけれども、まあ稽古したというよりも、まあ信心をしておるというわけなんですね。
 何か願い事のある時には、そこにお参りするといったような程度の信心です。それがまあ不思議な縁で、ここに縁を頂かれてから初めて、信心の何たるかを分からせてもらい、信心の有難さを分からしてもらい、日々熱心にここで信心の稽古をしておられます方でございます。一つのお夢の中にですね。大きなキシミのような水がいっぱいそこへたまっておるけれども、折角これだけのお恵みの水があるのに、船がのうちゃでけんから、私は船大工さん、船大工をやとってきて船を一艘造ってもろうと言うておるところであった。
 その船大工さんを雇いにいこうと思うたらところが、以前、そのある教会で信心をしておった時の先生がじっと、こうやってその、その方を睨むとも、見つめるとも分からんようなふうにして見とられる。何か気持ちが悪いような感じで、そこのところを頂かれたこう言うのである。
どういう様なことであろうかと。で、私はその方について申しました。いっぱいこの堤に水が湛えられておるというのは、お恵みの水のことである。もう本当に、私どもの私どもはそういうお恵みの水のなかにひたっておるようなもの。お徳の中にひたっておるようなもの。いかにも、お徳の中にひたっておりましても、そのひたっておるという実感がなからなければ、おかげを頂けなかったら、それはなんにもならん。
 その方は、ここにお参りするようになって始めて、気が付いた事は、ハァ信心して徳を受けなければ駄目、ということが分かってきたね。久留米の初代がいつも仰っておられたということでございますが、「この世は徳の船に乗って渡れ」とこう仰った。所謂、その徳の船に乗らなければ、この世では本当の幸せはないのだと。ね、いかに福寿海無量、おかげは無限、限りがないと言うても、おかげの中にひたっておっても、どうすることもでけない。徳を受けなければ、所謂我が身は神徳の中に生かされてあるというような喜びも頂けないし、勿論幸福につながる一切のおかげというものに触れることもでけない。ここにひたっておってもそれが、そこで先ず船大工を雇ってこうという。いよいよ本気で一つ、船を造らせてもろうという気持ちになったということは、それゃ信心して、おかげを受けるというということは先ず何と言うても、徳の船を造らなければならんのだ。
 船大工を雇ってこなければならんのだ。それには、誰が何と言おうが、誰が見ておろうが、どういうふうに、一時は例えて言うならば、その方は、教会のその、長年信心をしておりましたんですから、おかげで金光様のご信心というものを、分かっておるのでございますから、本当に身に徳を受け信心が、本当に分からせて頂いて、そして又、その教会に御用が出来るようなおかげを頂かれたら、その時にはまあ、見方、例えばそのお夢の中に現われておられるように、変な見方をされるかも知れませんけども、ね。「親に不孝をし、神に孝行し、そして後に親に孝行をする氏子がある。」これが桂先生の生き方でもあった。
 ところが世間には「親に孝行をし、神に不孝し、親に不孝する氏子がある。」これではつまらんぞと桂先生は仰っておられる。ね。例えば、親が何と言うても、ね。本当は、例えばこれは私が善導寺三井教会に、丁度丸五年間それがご無礼になった時代がございましたが、そん時には私は、親先生に申し上げました。親先生一つ我侭の息子を持ったと思うてから、一つ長い目で見て下さいと。もう私はそれでも悪いことをしょう。放蕩しょうと言うのじゃございません。まあ言うならば、たとえばこの田舎から東京なら東京に出て、一つ本当に向学心に燃えてる子供が、もう苦学でもしてからでもから一つ大学に行こうかもと、言うてはずんでおると思うて、しばらく長い目を見てください。最後にそんなことを申しましてから、善導寺を私はご無礼致しました。
 あの当時、私が頂いておった教会の御用といい、おかげといい、現在の事を思うてみるとです、本当に、まだそん時には、親先生に随分我侭なことをいう信者であると思いよったかも知れんけども、そして勉強させて頂いたおかげで、現在、私が助かるだけでなくて、いうなら世の中の難儀な氏子が助けられていこうという、そういうおかげにまでに、信心してきておるという事実をですね、皆さんがここでは見、聞きして下さってから、その信者さんでないじゃないですけれども、どんなにお恵みの水が堪えられておりましても、どんなにお恵みの中にひたっておりましても、それだけではいけん。ね。
 昨日、ある方がお参りされまして、息子さんがまあいうなら親の言うことを聞かずに、お父さんの気持ちに合わずに、しばらく家を出るということになった。お母さんはそのことが、本当に悲しいことだ。けれども、お母さんが心配して下さるな、お母さんに心配かけることは、決して悪いことをしなければ、心配されるようなことはせんから、折角お父さんとの仲を、こんなだから、暫らく出るからと言うて、まあ本当にそれこそ悲しいことである。その晩一生懸命そのことを、神様にお願いして休まれたらですね。熊本の水前寺公園に行かれたことがあるそうですが、あそこの泉水にたくさんの鯉が泳いでおるですね。行った方が、それを橋の上からそれを眺めておるというお写真であった。ここでは鯉というのは、お徳と仰る。さあ今こそこの徳を見とるだけじゃいかん。今までは例えば椛目に御縁を頂いて、ハァあれがお徳というものだろうか。あれが御神徳というものであろうかと言うことを、それこそ一杯見てきたんですね。日々皆さん見ておられるわけなんです。お徳の働きというものを、お徳というものはこういうものであろうと、だからもう見ておるだけでなくて、その鯉を自分も、いよいよ頂こうという、それは中々チャンスがなからなければいただけません。そういう例えば、絶好の機会を与えられておるんだから、本気で一つ鯉を取らしてもろうという気持ちになるよう、お徳を受けさせてもろうという気持ちになれよという、お知らせであると、自分もそう思うたとこう言われる。こ子で御届けをされて、してみると、そのことは悲しいことでもなからなければ、困ったことでもないですね。悲しい思いをする時には、心配の時にはです、どうでも一つ、本気でお徳を受けさせてもろう信心にならなければならんですねと言うて話したことです。
 ね。と言うて、ほんなら私がいつも申しますように、お徳を受けるとか、力を受けるとか言うて申しますけれどもです、そんならいっちょ徳を受けようかと始めから言うものは先ずなかろうと、こう思いますね。第一神様が分からん、その為に私は神様が分からせてもらうために、勉強もしなければならない。事実、自分自身のおかげも受けていく。なるほど神様だなぁ、神様のお働きというものは、こういうものだというおかげを先ず受けなければいけませんね。
 そして、まあ昨日、朝の御理解を思うてみて、そういうおかげを頂くために、一つお互い一心不乱の信心と修行が必要である。ね。所謂昨日も、おかげを受けるということには、二つの生き方があるといった。そういうあり方に、本気でならして頂かなければいけない。そしてそのお徳を受けていくという信心がです、例えて言うなら難儀な時に難儀を感ずるという時に、そのお徳が受けれるというならばです、その難儀が又有難い。
 まあ、最近私はこうして目を悪くしております。もうおかげ頂いて痛みをいたしませんけれども、何か治りかけだからでしょうか、なんか痒い、痒い感じがする。その時に私はあのお神酒をつけさせてもろう。もうそれこそ飛び上がるように痛い。痛いけれども、しかし有難い。その後の気持ちのよいこと。有難いこと。ね、ですからその苦労そのものはやはり苦しいんですね。もうそれは本当にある場合には、見も世もないごとに程に、苦しいんです。けれども、けれども信心を頂いておったというおかげでということになってもまいりますとにです、苦しい痛いけれども有難いというものが伴のう、その有難いが私は、そのままがお徳になると思うですね。
 ね。皆さんも例えて言うなら、その○○さんが頂いておりますように、堤の中にいっぱいの水が堪えられておる。又その婦人の方が頂いておられるように、そういう難儀な時に、神様がさあ、この時ぞ、お徳を受けるのは言わんばかりのお知らせを頂いておる。今までは、それを見てきただけであった。はぁ素晴らしか、あそこに行ったら、本当にあの思いますね。もう湧くような、湧いている清水にたくさんの鯉がこの群れて泳いでおる。ここではそうだと思うのです。ね。
 本当にお徳というものは、素晴らしいだなぁ、素晴らしいなぁと言うことを、皆さんが目の当たりに見とられます。だから見とるだけではなくて、本当に自分に頂こうという一つ気にならなければいけん。この世は徳の船に乗って渡れと仰るが、本気で一つ船大工を雇うてくるという気持ちにならなければいけん。それを場合によってはです、いろんな見方がされる場合があるかも知れん、ね。
 あの人はどここの教会に参りよってから、今は合楽ども参りよって恩も義理も知った人じゃなかと言われることがあるかも知れん。けれどもそこんところは、私は問題しちゃならない。先ず私自身がおかげを受けなければ、先ず私自身がお徳を受けなければ、お徳を受けたその先には、どのようなおかげでも受けられるのである。
 ね。ここではその鯉が群れをなしておるような、お徳を目のあたりに見ることが出来る。そして手本があるのだ。しかも目のあたりにあるのだ。もう百年前の教祖様の、先代のとか、こういうおかげを受けた人の話とか言うものではなくて、実際にここでおかげを受けておるという事実を、皆さん、目のあたりに見て、それを稽古が出来るということが有難いのである。だからその婦人じゃないけれども、それを橋の上から眺めておるだけではない。素晴らしい、素晴らしいと言うておるだけではつまらん。自分自身もそれを受けようとう気にならないけなければいけないと言うこと。
 例えて言うなら、二人の虚無僧さんがあると致しましょうか。あの何と申しますかあの、顔を隠す虚無僧がかぶっておるカサがございますね。尺八を持って、あっちから貰えとこう回って歩かれる。
私は以前、そんなのを目撃したことがある。虚無僧さんが尺八を吹いて気よる。したら家の中からある人がごめんなさいておらんだ。そしたらその虚無僧さんがですね、もう私はあん時のことは忘れませんが、もうなんともいえん音を出すんですね。それこそボウッとちゅうというような音をさせてから、そこの角を去っていかれる虚無僧さんを見ました。あれはどうしたことであろうかと言うたら、この家が運が悪るようにというものだそうですね。あれは、もう尺八、もう本当に何とも言えんあの尺八の、尺八寸の竹でどうして、あんなよい音色が出るじゃろうかというような音色が出ておる。そしてこちらから、御免なさいと言うた途端にですね、もうそれこそこの家が、運命が悪るようになるいうてから、何とかんとも気色の悪いような音色が出て、ところがそのこちらからごめんなさい、というた途端にですね、もうこの家が運命が悪くなるように、そいでもなんともかんとも気色の悪いような音を出してですね、その角を去って行かれるというようなのをいつか私はあの目撃したことがあるんです。
これはです結局、貰いそのものが、ね、食べていくというそのものが、その尺八のなんです、ね。いわば自分の生活のために、町から村へと、こう毎日回っておられるということ。ですから、貰いが多い時には、ハァ今日は良かったであろう。貰いが悪かったらまあ、今日は本当にくたびれた時である。変なことでも言うたら、それこそその家の運命が悪うなるような、その吹き方でもするような根性であるということ。
これでは皆さん、おかげを受けられませんね。ただ生活のために自分の気に入らなければ、それこそ神様に屁をひりかけるようなことを言うたりしたり平気です。ね、これでおかげも、徳も受けられるはずはないのですね。
 一人の虚無僧さんね。私はどういう意味であの尺八を吹くのか知らんけども、やはり言うなら経文と同じような有難いものじゃなかろうとこう思う。ね。そして自分の吹きならす、その尺八の音色にそれこそ聞きとれ、聞きとれ、角から角を回っておいでられる。貰いがあるとか無いとかじゃないのである。ね、例えば御免なさいと言うても、いよいよそこのとこを祈っていくような気持ちで回っておられる虚無僧さん。そういう甲乙の虚無僧さんがあるとしてごらんなさい。どちらが皆さん有難い。どちらが本当だと思われますか。
 折角この様な有難い信心を頂いたのでございますから、おかげを頂くために、信心をしておかげを頂かなかったら、神様にでも屁をふりかけるような生き方が本当なのか、ね。信心の道を分からさして頂いて、その信心の喜び、自分の心の中にです、それこそ、わが心の中に咲く花を弥蛇より他に、知る人ぞなかろうと、空海が言われたというようにです、自分の心の中に、和らぎ喜ぶ心、有難いという心が育っていくということをです。有難い。
 昨日でしたか、善導寺の久保山さんがお届けをしておられました。昨夜はおかげを頂きましてから、土居の共励会のおかげを頂きました。おかげを頂きましたが、中に、正義さんが発表しておられました。最近はどうも、あそこはご承知のように大きな事業を致しておりますから、金の繰りがどうも思わしくない。神様にお願いしても、お願いしても、その金のお繰り合わせが頂けない。そこで私が最近考えたことは、自分達の仕事というのがですね、例えて言うならばあの人達の言葉で言うなら天麩羅工事、見えたところはがっちりやるけども、目に見えないところは、仕事がスキが好かんところは、ざっとするといったような、ある方のことがある。人夫さんが一生懸命に、もうそこはざっとしとけと言うようなことはなかったか、いんやはあったということに気が付いた。こげなことじゃ、私が金に不自由するはずと思うてそこんのところに焦点を置いて、まあおかげを頂いておるという意味のことを、正義さんが発表しておったと言うことである。そして本当のその、生神金光大神様を唱えたら、体が痺れるぐらいな、有難さを頂きたいと、こう結んでおったと言うことを、先日、私はその正義さんの話を聞かせて頂ながらです、まあ私自身がなんか身体が痺れるような信心じゃなんじゃろうか有難いことじゃろうかと思いを致しましたと言うて、久保山さんがお届けをされておりますね。仕事はただ今、食べることだけじゃない。誰が見ても、見とるんじゃない。こうすることが、本当だということを本気でなさして頂く。不如意の時にはどうしてこんなにお金に不自由するじゃろうか、どうしてお金に不自由するじゃろうかということをです、只、神様お繰り合せをお願いします、お願いしますで、おかげを頂けるはずはないもんですね。
なるほどああいうところが、神様の気感にかなわんのであろうかと気付かせて頂いて、そこを改めていく、そして金光様、そしてそれは縋らんにゃならんけ、お願わんにゃならんけん、金光様じゃない、思わず知らずに唱える金光様を唱えたらです、自分の心の中にそれこそ、痺れるような有難さが頂けれるような、金光様を唱えたいと、こういう正義さんの気持ちなのだ。私はそれを言うからには、たまに金光様唱えりゃ、身体が痺れるような有難さを、自分自身も頂いておることであろうと、ね。そういうものを、いつも頂きたいと言うのである。
 皆さん所謂、自分の吹きならす尺八、ね。それこそその音色に聞きとれ、聞きとれ、自分の心の中に自分も何とこんなに、自分というものは、こんなに変わり果てたものであろうか。ね。親鸞と弁円ではないですけれども、弁円が山伏をしとるおる時に、所謂、師匠であるその親鸞の命までも狙った、その狙って相手のお徳の高いのに敬服して、感服して弟子にならしてもらって、ある時に師匠の帰りが遅いから、山道伝いに途中まで出向いた。と気付いたら、いつか自分がその師匠親鸞の命を狙ったという場所にそちょうど出会わせた時に、弁円が唄っております歌が「野も山も道も昔と変わらねど、変わり果てたるわが心かな」という歌を唄って感涙にむすんだという話がございます。
 ね。自分の心がその変わり果てていく、有難い意味あいにおいて、自分の心というものがです、本当に、いつのまに自分のこういうふうに有難うなってきたでもんのであろうかと、自分の吹きならす尺八に聞き取り、聞き取り貰いが多いの少ないのじゃない。そこには私は、本当のおかげを受ける道と言うか、徳が受ける道が開けると、来るのだということなんです。それには先ずです本気で、一つなら船大工でも雇いにいこうという気持ちにならんにゃいけん。それを誰を見ておっても、聞いておっても、それが誰が謗るようなことがあっても、ね。そこんところを問題するようなことじゃおかげを受けられない。
 今までは橋の上から見えておる鯉を見ておることだけではあったけれども、その鯉を本気でこういう、この時こそ受ける頂く時だというふうに分からせて頂いたら、本気でそんな中に入らさせてもろう私は、信心が必要ではなかろうかとこう思う。
本当に皆さん、先ずおかげを受けなければいけませんね。そしてならおかげに終始してはなりません。ね、そして本気でお徳を受けさせてもろう信心に、所謂向きを変えさせて頂かねばならんと思いますね。どうぞ。